受験生に持って欲しい気持ち

僕が教員時代に「どんな進路を考えているの?」って聞くと「march以上」とか返ってきたりすることがありました。まぁ内心「オイオイオイ」とちょっと心配になります。「学ぶことより学ぶ場所のほうが先にくるか…」

でもこれって生徒の性格ではなく、周りの大人の影響が出ているものだと思っています。

これは持論ですが、学歴なんてカレーライスの福神漬けのようなものだと思っています。いや、もちろんないよりはあったほうがいいかもしれないが、そんなものは飾りであって、その人の本質ではありません。せいぜい人からの第一印象は良くなるかもぐらいです。学歴なくても優秀な人はいるし、慶應卒であっても仕事できない人もいます。凄い厳しい言い方になりますが、社会人になってからも自慢な学歴をやたらに振りかざす人は、それしか自分に肯定できない寂しい人間ですし、逆にいつまでもコンプレックスに感じてしまう人も他に自分を認めることができない卑屈な人間になってしまう、そう感じることが多いです。どっちにしても大した価値にはなりません。

2ヶ月ぐらい前に脳科学者 茂木健一郎さんがツイートした内容で軽く炎上していました。

大前提として言葉っていうのは、伝わることが1番、重要だと思っています。今を生きる人に伝われば正しい言葉なんです。それが言語だと思っています。だからmarchという言葉は利便性という観点において、僕も使いますし、言葉使い1つで軽蔑というのは言い過ぎかなぁと思ったりはします。

ただね、言いたいことは僕もずっと感じてきました。例えばmarchだって、明治中央法政は実学系ですし、青学立教はミッション系、さらに大学の中でもいろんな特色があるわけじゃないですか。ただ偏差値で分けた大学群を一括りにすることは、偏差値以外の特色の軽視させてしまう。さらにそれが高校生の大学入学の動機づけを「偏差値による学歴」に依らせてしまうことを促進させているように感じるんですね。学校教育の目的とは生徒の幸せに生きるための手段を身につけさせることであり、学歴を高めることではありません。ただ、良い大学へ入学すること、そして良い会社に入社すること、これが幸せのプラチナチケットであるようなまやかしが漂っている。一般受験組は偏差値や受験科目は見ても、学校の特色なんてあまり見ませんよね。完全な主観的な感想ですが、march等の大学群には、その偏差値主義を象徴するような言葉に感じるのです。学校でも学校運営のための進路指導と感じざるを得ない場面も見てきました。

酷い授業が横行している私立の総合大学なんて本当に多いですよ。何を学んだかよりもどこで学んだかが重視される。だから大学が就職予備校なんて言われ、先生は授業をやっているフリ、生徒は授業を聞いているフリ、その茶番に多大なコストが払われているわけですね。

受験合格を目指すなって言っているわけではありません。好きなことをやるためにもある程度の成果は必要になりますし、何かを頑張ったことというのは大きな財産になると思っています。ただ、周りの期待に報いること、周りが羨む着飾りを目的とするのではなく、自分がどういう状態ならハッピーなのかという考えは常に持ったままは勝負してほしいと思います。

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