学校はピクミン養成所

下のデータは去年行われていたに18歳対象に行われた6カ国比較で質問に「はい」と答えた人の割合です。

もちろんこのアンケートはどれも主観的な指標です。謙遜が美徳とされる日本だからという議論はあります。ただ、この数値を見た時に僕が教員として抱えていた思っていたことを象徴づけるデータになり、「だろうな…」という気分でしたね。端的に言うと「当事者意識にかける」ということです。いまなんて法的には18歳から大人です。そんな人たちの3/4人が自分は大人だと思えない人たちがいる現実に衝撃が起こりましたね。

教員が子どもを未完成な存在、存在とみなしているからです。その典型が校則です。「服装の乱れは心の乱れ」とか言ってやたら管理したがります。ルールなんてみんなが過ごしやすいようにするための「決まり」に過ぎないのに。伝統だのいつまで経っても変わらない。伝統は作るためにあって、守るためにあるものではありません。

では何故、様々な校則があるのでしょうか?三年間教員をやってきてわかりました。我々にとって規則だから守れは非常に管理手段としてすごい楽なんですね。例えばスマートフォンが禁止の理由は、先生が話しているときに授業を聞かないでスマホいじるやつが出てくる。本来は生徒に聞く価値がないと思われたらそれまでなんです。でもルールだから辞めろ、と言えば楽なんですよね。聴きたくなるような授業を研究するよりも

僕は本当に嫌でしたね。少なくとも僕が見てきた高校生は思った以上に大人でした。僕が精神年齢幼いのもありますが笑。責任ある立場と経験がないこと以外はそう変わらない存在だと思います。本当に守らなければならないこと、危険の伴う行為、人権侵害に関する行為、法に触れる行為、この辺りは高校生であれば、しっかりと説明すればルールなんて存在しなくても理解してくれるんですよ。「ピーコートはいいけどダッフルコートはだめ」みたいなルールだからとしか説明しようがないものもあります、僕だって納得しませんよ。生徒も当然、納得はしませんから、「怒られるから次は見つからないようにしよう」となるだけです。先生の目の届かないところでは機能しないですね。

そう考えると校則の教育的な意義ってよくわからないけど大人の言うことを取り敢えず聞いとけという意識が付かせることですよね。先生のお話を良く聞いて、ルールをしっかりと守って、悪い点を取らないようにしっかりと勉強できる人間。そういう人間を育てる機関です。僕はあのゲームのcmを思い出しましたね。

「引っこ抜かれて、あなただけについて行く
今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる

ほったかされて、また会って、投げられて
でも私たちあなたに従い尽くします」

ピクミンのcmです。偉い人の言うことをしっかりこなせるようになることに価値はあるのだろうか?

日本の企業はトップダウンな組織な傾向が強いです。上が決めたことに従って、粛々と処理をしていく。戦後40年ぐらいのものづくりの時代はそれでも良かったんです。効率良く規格された商品を製造していくには。その時にはこういう人間に価値があった。ただ、今は変化が激しい、現場の人間には上の言ったことが現場の人間に反映されるころには状況が変わっている。現場の人間には自分で判断する能力が求められる。それができない企業が没落していったわけです。だから息苦しいだけの学校、息苦しいだけの社会に繋がると思っています。

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