I have a dream.

私には夢があります。

子どもたち全員が幸せになって欲しい。
(ここでいう子どもたちとは18歳未満です。18歳以上はあまり興味がありません。というよりも18歳以上は大人ですから、幸せにさせてあげるなんて言うのはかえって失礼な話だと思っています。)

学校教員ではせいぜい自分の目のまえの人間としか関わることが出来ません。だから正規教員を辞めるときは、そういう活動をいつかやっていきたいとぼんやりと思っていました。しかし方法が分かりません。今の僕には力量不足です。だから僕はいま学習塾を経営しながら、学校も転々として色んな学校を見ながら、お金の流れも勉強して受験生と同じような気分です。年度末には大学でスピーチしますが、それを機に動いていきたい気持ちもあります。僕は好奇心に沿って、生きていくのが好きな性分なのでしょう。40になるまでには将来は培われた総合力で、自分にしかできないもっと大きい活動をしたいと思っています。

僕は学校が好きなのですが、嫌いです。自分が学校教員として働くには非常に楽しい場所でした。こんなのでお金貰って良いのかというぐらいに充実していました。生徒と関わることで大それたことをしていなくても先生!と感謝されることには少なからず社会的充足感は感じますし、何より生徒から得られる学びは多く、その点で自分には天職だとは思っています。

しかし、学校教育とは大人の都合が隠されていると思っています(特に公立小中学校)。学歴主義、校則、内申点、1学級40人クラス、部活動…様々な部分に影があります。僕は管理教育が徹底された不自由な教育が嫌いです。
規範意識が高く、しっかりと勉強するいい子が評価され、真面目で我慢強いことが美徳とされ、逆に勉強以外に夢中になれていても勉強がイマイチだったり、学校生活上に問題があれば、ある意味の不適切な生徒として烙印を押されてしまうこと、これが問題です。少ないコストで多くの生徒を見るには管理の手法としては確かに非常に合理的な手段だとは思います。しかし、そういう教育を行っている国ほど、自由度も幸福度も低く、窮屈な社会になっていくのは偶然ではないでしょう。

僕は99%以上の子どもが素直だと感じています。裏を返せば何に取り組むにしても内申や評価など大人の目線を気にして、自身の夢中が二の次になってしまうように感じています。断言しますが大人になった時に幸せに生きるために必要なことは「忍耐強く我慢した経験」ではなく「何かに夢中になった経験」です。僕も学校教員時代の生徒がどんどんと社会人になっていき、ありがたいことにちょくちょくと連絡を頂いていたり、飲みに行ったりしていますが、何かに夢中になって取り組んだ生徒たちのほうがパワフルに生きています。もちろん僕は勉強がそこまで重要ではないと思っているわけではありません。自分は数学こそがスマートに、ハッピーに生きるための手段だと思っていますから。肝心なのはバランスです。

何のための誰の学校なんだということは学校教員は常に考えるようにはしなくてはなりません。しかし個々の教員の努力が足りないわけではありません。あまりにもこなさなくてはならない業務が多く、進歩のためのコストが割けない現状があります。経営者をやって思いましたが、仕事のクオリティを上げるためには「ゴールを決めること」「やらないことを決めること」だと思っています。しかしそこがブレブレなので何一つ問題が解決されません。教員の成り手が減っていき、採用試験の前受験や免許取得条件の緩和など様々な手を使って成り手を増やそうと必死ですが、大して効果があると思えません。少子化で必要な教員の絶対数は減っているのになぜ不足しているのか、この国の指導者は分かっているのか?という話です。教育をないがしろにした国には未来はありません。


ここまで読んでくれた人にはもう一つだけ伝えます。
教育崩壊はいずれ起こるといわれていますが、すでに起きていると思っています。僕の塾の近隣の公立中学校では毎年数人は年度途中で休職してしまいますが、普通じゃありません。そのために自習だったり管理職が授業したりと。定員割れの自治体は小学校をはじめ全国でどんどんと増え始めてきています。20年後はどうなることやら。僕は大幅に教員の待遇を改善すべきと思いますが、彼らのために言っているのではなくその不利益を被るのは子ども達だから思っています。自分に子どもがいれば、ダイレクトに関わっていく問題です。子ども達って起きている時間の半分は学校で生活します。エゴかもしれませんが、学校教員がどんな学校を作っていくかによって大きく変動させるものだと思います。そりゃ個人差はあると思いますが、それだけ学校教員というのは尊い使命を背負っていると思います。成績を上げて志望校に受からせるだけが仕事の塾とは仕事のスケールが違います。

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