ブラック・ジャック「おとうと」より適材適所

小学生の頃、学校の図書室に置いてあった『ブラック・ジャック』を夢中で読んでいました。

印象に残っているエピソードがあってその一つ。

「おとうと」という話です。

手塚治虫の作品は、派手な展開や感動を押しつけるような描写があるわけではありません。それでも読み終えたあと、「そういうことだったのか」と何十年も心に残り続ける作品があります。

この「おとうと」も、その一つです。

物語は、一族に代々受け継がれてきた「がん」から始まります。父親もその病に侵され、死の床で兄弟に最後の願いを託します。

「お前たちのどちらかが医者になり、この一族に受け継がれてきたがんを治せる医者になってほしい。」

その願いを受け止めた兄・英一は、自分が医者を目指すのではなく、弟・英三を医者にすることを人生の使命にします。

工場で必死に働き、自分の人生を犠牲にして学費を稼ぎます。弟には最高の家庭教師をつけ、それでも足りないと医学部の裏口入学の枠まで買います。兄は、自分にできることはすべてやりました。しかし、それでも弟は医者にはなれませんでした。兄の期待にも応えられない苦しさから家を飛び出してしまいます。

兄は、自分の人生を犠牲にしたにもかかわらず弟に裏切られたと思い、深く恨み続けます。それから数年後。兄は弟の消息を耳にします。弟は事業家として成功し、大企業の社長になっていたのです。そして皮肉にも、その頃兄は父と同じがんを患います。

弟は兄を救うため、ブラック・ジャックに莫大な報酬を提示して治療を依頼します。

しかし兄は、弟の金で命を救われるくらいなら死んだほうがましだと治療を拒みます。

それでも弟は兄を見捨てませんでした。最後には、兄も弟の変わらない愛情を知ることになります。

この話を読むたびに考えさせられます。

現実でも、医師という仕事には学力上位層が集まります。

逆に、成績が振るわない人が医師を目指すことはほとんどありません。でも、それは「成績上位者ほど医療に興味を持っているから」なのでしょうか。

僕は少し違うと思っています。

医学部は極めて難関です。そして医師という資格は、社会的信用も高く、収入も安定しています。

だから学力の高い人ほど、「目指せるから目指す」という選択肢になりやすいのだと思います。

もちろん、医師という仕事は本当に素晴らしい仕事です。

でも、それは「学力が高い人にとって最高の仕事」であることを意味するわけではありません。

経営に向いている人。

教育に向いている人。

研究に向いている人。

芸術に向いている人。

人には、それぞれ違う才能があります。

もし英三が兄の願いどおり医者になっていたら、名医になっていたでしょうか。僕はそうは思いません。

本人にとっても、患者さんにとっても、不幸だったかもしれません。

医者としての適性はなくても、経営者としては誰にも負けない才能があった。

この物語は、「勉強ができなかった弟の逆転劇」ではなく、「人には、それぞれ活躍する場所がある」という物語なのだと思います。

学生時代、私たちは成績で評価されます。

テストの点数、偏差値、順位。

まるで一本の数直線の上に並べられ、「上」と「下」を決められていきます。

その世界に長くいると、「成績が良い人ほど優秀で、悪い人ほど能力が低い」と思い込んでしまいます。

でも、人間の能力は一本の数直線では表せません。

人を惹きつける力。

決断する力。

周囲をまとめる力。

価値を生み出す力。

学校では測れない能力が、社会では大きな価値になることもあります。

勉強はもちろん大切です。

勉強ができれば、人生の選択肢は広がります。

だから僕は塾をやっていますし、子どもたちにも勉強は頑張ってほしいと思っています。でも、それだけで人の価値や可能性が決まるわけではありません。

学校は一本の物差しで評価する場所です。

人生には、無数の物差しがあります。

学校で思うような結果が出なかったとしても、それだけで自分の可能性を決めつける必要はありません。

自分の才能を発揮できる場所は、きっとどこかにあります。

『ブラック・ジャック』の「おとうと」は、そのことを何十年経った今でも教えてくれる、僕にとって忘れられない作品です。兄弟愛ではなく、適材適所があるという教訓だと思っています。

この記事を書いた人