「不正解は無意味を意味しません」
これは漫画『チ。―地球の運動について―』に登場する少年ラファウの言葉です。この作品は、地動説を唱えることが命がけだった時代をモデルにしています。
主人公のラファウは12歳という若さで地動説に魅了されます。しかし当時、それは異端思想でした。
自らの信念を曲げなければ処刑される。そんな状況の中で彼は、「この選択は君の未来にとって正解だと思うのか?」と問われます。
彼の答えが、
「そりゃ、不正解でしょ。でも、不正解は無意味を意味しません」
でした。
ラファウは一章の主人公ですが物語全体で見れば登場期間の短いキャラクターです。ですが、この作品で最も印象に残っています。
なぜなら、彼の生き方や考え方が『チ。』という作品のテーマそのものを表しているように感じるからです。
自分の人生だけを考えれば、その選択は不正解かもしれない。それでも、自分が信じたものや学んだことを次へ繋ぐことには意味がある。
だからこそ、彼の「不正解は無意味を意味しません」という言葉は、物語を読み終えた後もずっと心に残っています。
さて、現代の教育現場ではどうでしょうか。
不正解であることが、少し過剰に嫌われているような気がします。ペーパーテストと成績評価のコンビと相性が悪いゆえだと思っていますが。
テストで間違えることを恐れる。
発言して外すことを恐れる。
挑戦して失敗することを恐れる。
もちろん、正解を目指すことは大切です。
しかし、それと「不正解は無意味だ」という考え方は別の話です。
僕は「不正解から学ぶ」ことが何より大事だと思っています。
中学生でたまに、「丸付けするの忘れました」という生徒がいます。
正直なところ、かなりもったいないと思います。
料理で例えるなら、中華料理屋で野菜を切って、炒めて、味付けして、盛り付けまで終わったのに、そのままゴミ箱へ捨てるようなものです。
勉強で一番価値があるのは、問題を解き終わった瞬間ではありません。
丸付けをした後です。
「あ、ここで符号を間違えたのか」
「この公式じゃなくてこっちだったのか」
「計算ミスだと思ったら、そもそも考え方が違ったのか」
そうやって自分の間違いと向き合う時間こそが、本当の勉強です。
冗談抜きで、成績が伸びるかどうかの大きな分かれ道はここにあると思っています。もちろん、あまりにも復習できていなさそうであれば私も声をかけますし、授業を止めて確認させることもあります。ただ、本来は先生に言われるからやるものではないと思っています。
自分で丸付けをして、自分で間違いを見つけて、自分で修正する。その習慣が身につかなければ、結局は誰かに管理されないと勉強できないままになってしまいます。
成績が伸びる生徒は、不正解から学びます。成績が伸びない生徒は、不正解を見ないようにします。
宿題を終わらせることや、問題集を一周することが目的になってしまうのです。
しかし本来、間違いだらけの答案というのは宝の山です。
自分ができないことが全部書いてあるのですから。
できないことをできるようにするための最高の教材は、参考書でも問題集でもありません。自分の間違いが詰まった答案です。
ただ、誤解してほしくないのですが、私は塾長ですから学校の定期テストや受験に対して責任を負っています。
ですから生徒に対して、
「本番で失敗してもいいよ」
とは言いません。できる限り準備をして、本番では実力を発揮してほしいと思っています。
ピカソは生涯で14万点近い作品を残したとも言われています。
私たちが知っているのは、その中のほんの一部です。
失敗を恐れて作品を生み出さなければ、後世に残る名作も生まれなかったでしょう。
勉強も同じです。
不正解を恐れて挑戦しなければ成長はありません。不正解から学び、次に活かす人が成長するのです。
そして、ここからは塾長としてではなく、一人の大人としての本音です。
受験に失敗したこと自体が人生の失敗だとは思いません。
もちろん、その時は悔しいでしょう。
できることなら合格した方がいい。
私も塾長として、そのために全力を尽くします。
それでも、そこまで努力したこと。
悔しい思いをしたこと。
自分の弱さと向き合ったこと。
そうした経験は、その後の人生で必ず活きます。
挑戦しなかった人には、その経験すら残りません。
定期テストで失敗したなら次の定期テストで頑張ればいい。
受験で失敗したなら、その先の人生で活かせばいい。
不正解は悔しい。できることなら正解した方がいい。
でも、不正解は無意味を意味しません。
だからこそ、間違えることを恐れるのではなく、間違いから目を背けないこと。
それが成長への一番の近道なのだと思います。
漫画ネタばかりでごめんなさ~い


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