学校の当たり前 ② 英語編|6年間も英語を勉強して、なぜ話せないのか?

僕はこれまで学校の教員として、そして現在は塾の経営者として教育に関わってきました。

その中で、学校の5教科にはそれぞれ違った課題があると感じています。

特に問題が大きいと思っているのが英語です。

まず、自慢じゃないですが、僕自身の英語力についてお話しします。

僕は自分が進学した大学の英語の入試問題で、ほとんどが4択問題だったにもかかわらず、得点率が25%にも届きませんでした。

適当に選んだ場合の期待値にすら届いていなかったわけです(笑)。

それくらい英語は大の苦手でしたし、学生時代には英語を勉強する面白さもほとんど感じられませんでした。

英単語を覚える。文法を勉強する。長文を読む。

正直、何が面白いのかよく分かりませんでした。

ところが、大人になってから少しずつ考えが変わってきました。

その話は後ほどするとして、まずは学校の英語教育について考えてみたいと思います。

日本では、中学校から高校までの6年間、英語を勉強します。現在では小学校でも英語教育が行われています。

それなのに、6年間も勉強した生徒が、外国人を前にすると簡単な会話すら自信を持ってできない。

一方で、英会話スクールに通っている小学生が、外国人に、

「Where is Odasaga?」

と平気で話しかけることがあります。

その小学生が、中学・高校で6年間英語を勉強した生徒たちと同じペーパーテストを受ければ、到底かなわないでしょう。

英文法の知識も、語彙力も、長文を読む力も、高校生の方がずっと上だと思います。

でも、外国人を目の前にして、自分から話しかけられるのはどちらでしょうか。

英語のテストで高得点を取れることと、英語を使ってコミュニケーションできることは、必ずしも同じではありません。

英語教育には読む力も必要です。

大学に進学すれば、英語の論文や専門書を読まなければならない場面もあります。研究や仕事で、英語の文章を正確に理解する能力が必要になることもあるでしょう。

ただ、そうしたアカデミックな英語は、高等教育で専門分野に応じて深めていけばいいのではないでしょうか。

中学生の段階から、難しい英文を正確に読み解くことを優先する必要が、どこまであるのでしょうか。

基礎的な語彙や文法、簡単な文章を読む力は、会話をする上でも大切です。

でも、限られた授業時間の中で何を優先するべきなのか。

僕は、まず英語を聞き取り、自分の言いたいことを伝えられるようになることを、もっと重視してもいいと思っています。

そもそも、学校の英語教育は何を目標にしているのでしょうか。

実は、現在の学習指導要領を見ると、目指している方向性そのものは悪くないと思っています。

高校には「英語コミュニケーション」と「論理・表現」という科目があります。

英語コミュニケーションでは、聞く・読む・話す・書く力を総合的に育てることが求められています。

論理・表現では、特に話すことや書くことを通じて、自分の考えを論理的に表現し、相手に伝える力を育てることが重視されています。

ところが、実際の授業はどうでしょうか。

英語コミュニケーションのはずが、英文を一文ずつ和訳し、文法や構文を解説する授業。

論理・表現のはずが、文法事項を説明し、穴埋め問題や並べ替え問題を解く授業。

そんな授業になっていないでしょうか。

「今日は現在完了形を勉強します。have+過去分詞で、経験・継続・完了という用法があります。」

「今日は関係代名詞を勉強します。主格のwhoとwhich、目的格のwhomとwhichがあります。」

説明を聞いて、例文を読み、問題集を解く。

そして定期テストでは、正しい文法を選んだり、英文を並べ替えたりする。

これって、英語を使えるようにするための授業なのでしょうか。それとも、英文法の問題を解けるようにするための授業なのでしょうか。

僕が問題だと思っているのは、文法を教えること自体ではありません。

学習指導要領が求めている能力と、実際の授業で育てようとしている能力に、乖離が生まれていないかということです。

英語を使うために文法を学ぶのであって、文法を学ぶために英語を使うわけではないはずです。

僕は、学校と塾では役割が違うと思っています。

塾は、定期テストの点数を上げたい、志望校に合格したい、苦手科目を克服したいという、比較的明確な要望に応える場所です。

一方で学校は、生徒が卒業した後、より良く生きていくための能力を育てる場所だと思っています。

学校が塾と同じように、目先のテストの点数を上げることばかり考えていていいのでしょうか。

僕は数学の授業で、速さの問題を教えるときに「きはじ」を使いません。

なぜ距離を時間で割ると速さになるのか。そもそも速さとは何を表しているのか。

そこを理解してほしいからです。

「きはじ」を使えば、速さの問題が解けるようになる生徒もいるでしょう。

でも、公式の意味を理解しないまま、ただ当てはめることだけを覚えてほしくはありません。

数学では、公式がなぜ成り立つのか、どのような場面で使えるのかを考えることが、比較的当たり前に行われています。

しかも数学の場合、難しい入試問題になるほど、単なる公式の暗記だけでは対応できなくなります。

つまり、数学では本質的な理解を深めることと、テストで点数を取ることが、比較的一致しやすいと思っています。

でも英語は、少し事情が違います。

英文法の問題が解けることと、実際に英語で意思疎通できることは、必ずしも一致しません。

中学生相手に文法を説明する。単語を覚えさせる。問題集を解かせる。リスニングのCDを流して問題を解かせる。

それだけなら、英語を専門としていない僕でも、ある程度はできます。というより塾でやっています。

でも、英語を専門として学び、教員免許を取得した先生方の専門性は、本来そこだけで発揮されるものではないと思います。

英文法を教えることと、英語を使えるようにすることは違います。CDを聞かせることと、英語を聞き取れるようにすることも違います。

英語をほとんど話せない中学生を、どうすれば英語で意思疎通できるように育てられるのか。

聞き取れない原因が語彙不足なのか、音のつながりを認識できないのか、英語の語順で意味を理解できないのか。

どんな順番で英語に触れさせ、どんな練習を積ませれば、生徒が自分から英語を使えるようになるのか。

英語についての知識を教えることと、英語という技能を習得させることは違う。

そこにこそ、英語教師としての専門性があるのではないでしょうか。

そして、僕がもう一つ問題だと思っているのは、テストの点数が上がることで、教師自身もその指導に満足してしまいやすいことです。

文法を教える。問題演習をする。テストの点数が上がる。

生徒が喜ぶ。保護者も喜ぶ。教師自身も達成感を得る。

「今年はうまくいった。来年もこの方法でいこう。」

そうなってしまうのも、ある意味では自然なことだと思います。

でも、テストの点数が上がったことと、本来育てたかった能力が身についたことは同じではありません。

本来は英語を使えるようにするための文法なのに、文法問題を解けるようにするために英語を勉強していないか。

そこは、教育者として考える必要があると思っています。

そして、ここからは僕自身の経験です。

大人になってから、僕はアジアへ旅行してみたくなりました。

日本語以外では英語が多少使えるので、英語が比較的通じやすく、旅行費用も抑えられるフィリピンとマレーシアで迷い、マレーシアへ行くことにしました。

マレーシアは多民族国家なので英語も中国語も現役です。そこで、僕は中華料理にハマりました。

特にペナンの中華屋台で食べた料理が、本当においしかった。

あまりに感動したので、店のおばちゃんに、

「Chinese food is the most delicious in the world!」

と伝えました。

すると、おばちゃんはとても喜んでくれて、料理をおまけまでしてくれました。

僕はそのとき、外国語で自分の気持ちを伝える面白さを実感しました。

そして同時に、

「今度はこれを中国語で言ってみたいな。」

と思いました。

帰国してから中国語を勉強し始め、今度は台湾まで行きました。

今では「你好」「我要一個」くらいの簡単な中国語なら使えるようになりました。

別に中国語の資格を取りたいわけではありません。

試験で点数を取りたいわけでもありません。

ただ、現地の人と話してみたい。もっと料理や文化を楽しみたい。

それだけです。

そういえば、以前からオンラインゲームのLeague of Legendsでも英語を使っていました。

「Can I go mid?」

「My bad.」

「You pinged me.」

そんな短いチャットですが、自分の意図を伝えたり、相手の言いたいことを理解したりすることはできていました。

ゲームをするために英語が必要だったので、自然と使っていたわけです。

僕は、こうした経験を通じて、外国語を学ぶ意味をようやく実感できた気がします。

英語を勉強したから使ってみたのではなく、使ってみたからもっと勉強したくなった。

ここまで学校の英語教育について、いろいろと厳しいことを書いてきました。

でも、学校の授業だけで僕が理想とする英語教育を実現するのが難しいことも、よく分かっています。

僕自身、学校で教員をしていたので、授業時間の制約やカリキュラム、集団授業の難しさは理解しているつもりです。

だから、今回の記事で一番伝えたい相手は、実は英語の先生方ではありません。

今、英語を勉強している生徒たちと、その保護者の方々です。

英語のテストで点数を取ることは大切です。志望校に合格するために、文法や単語を一生懸命勉強することも必要でしょう。

でも、それだけで英語という教科を判断してほしくありません。

テストで点数が取れないからといって、英語を使うことまで諦める必要はありません。

逆に、テストで高得点を取れるからといって、それだけで英語を十分に使えるようになったわけでもありません。

僕自身、大学入試の英語では散々な結果でした。

それでも、大人になって海外へ行き、英語で自分の気持ちを伝え、そこから中国語まで勉強するようになりました。

だから、生徒たちには一度でいいから、英語を実際に使ってみてほしい。

海外旅行でも、オンラインゲームでも、外国人との交流でも構いません。

完璧な英文を作れなくてもいい。聞き取れなければ聞き返せばいい。

僕だって同じです。日本語も怪しいのに語学の習得はかなり遅い方です。

海外に行ったところで、流暢に英語も中国語も話せるわけではありません。知っている単語を並べて、あとは身振り手振りでゴリ押しです(笑)。

それでも、意外と何とかなります。

伝わらなければ別の言い方をしてみる。相手の言っていることが分からなければ、もう一度聞いてみる。

そして、ちゃんと伝わったときは嬉しいんです。それでもダメならいまは翻訳ツールが強いから、頼ればいい。

僕は、英語という教科には、間違えることを恐れずに人とコミュニケーションを取る勇気を育てる役割もあると思っています。

英語が完璧になってから話しかける必要なんてありません。

むしろ、使ってみて初めて、自分に何が足りないのか、もっと何を勉強したいのかが見えてくる。

そんな小さな成功体験が、英語に対する見方を大きく変えることもあります。

最近では、中国語を少しずつ勉強しています。

中華街に行けば、日本語がとても流暢な店員さんもたくさんいます。日本語で注文した方が、ずっと簡単です。

でも、僕はあえて中国語で話しかけてみます。

「你好!我要一個!」

別に中国語で話さなければ困るわけではありません。ちなみに今日話した店員さんはなんと韓国人でした(笑)

ただ、使ってみたいんです。

ちゃんと伝わるかな。発音は合っているかな。相手は何て返してくるんだろう。

そんなことを考えながら話しかけるのが、今は面白いんです。

学生時代にはあれほど外国語の勉強が嫌いだった僕が、今ではわざわざ外国語を使う機会を探しています。

勉強しなければならないから使うのではなく、使ってみたいから勉強する。

生徒たちにも、そんな経験をしてほしいと思っています。

そういえば、学校で教員をしていた頃、韓国のアイドルが好きな女子生徒が、自分のノートにハングル文字で名前を書いているのをよく見かけました。

最高じゃないですか。

誰かに韓国語を勉強しなさいと言われたわけでもありません。

テストに出るわけでも、成績が上がるわけでもありません。

ただ、好きなアイドルがいるから、韓国語に興味を持って、自分で文字を調べて書いてみる。

僕は、そういう学び方があっていいと思っています。

外国語を学ぶきっかけなんて、そんなものでいいんです。

好きなアイドルの言葉を理解したい。海外のゲームで仲間と話したい。旅行先で食べた料理がおいしかったから、現地の人ともっと話したい。

そういう気持ちから、自分で勉強を始める。

学校のテストで何点取れるかよりも、外国語を使って何をしてみたいか。

生徒たちには、そういう楽しさも知ってほしいと思っています。

ただノートに名前を書くときは、日本語も添えてください💢

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