教養力=レンズの数 × レンズの深さ 中学生が一番差がつくね

僕は、小学校の勉強は「生きるための道具」だと思っています。

文字が読める。

計算ができる。

文章が書ける。

これらは社会生活を送る上での必需品です。だから小学校の勉強は重要です。

そして、その価値は比較的理解されやすいとも思っています。

「勉強なんて必要か」と言う子どもですら、「いやまあ読み書きや計算は必要でしょ」認めてくれることがほとんどだからです。

本当に差がつくのは、中学校の勉強ではないでしょうか。

中学生になると、

「因数分解なんて将来使わない」

「関数なんて何の役に立つの」

という声が出てきます。

確かに、因数分解そのものを使う仕事はほとんどありません。しかし、勉強の価値はそこではないと思うのです。

僕は人生とは選択の連続だと思っています。

どの学校へ進学するのか。

どんな仕事に就くのか。

投資をするのか。

家を買うのか。

人生は選択の積み重ねでできています。そして、その選択をする際に最も役立つ科目が数学だと僕は思っています。

費用対効果。確率。関数。

割合。統計。

こういった考え方は人生のあらゆる場面で登場します。僕が何かを考える時、まず数字で考える癖があるのもそのためでしょう。

おそらく職業病かもしれません。

ただ、これはあくまで僕の見方です。

国語の先生なら、「人の気持ちを理解する力」が大事だと言うかもしれません。

歴史の先生なら、「過去を知ることで今を理解できる」と言うでしょう。

理科の先生なら、「根拠をもって考える力」だと言うかもしれません。

英語の先生なら、「世界とつながるための言語」だと言うかもしれません。

きっとどの先生にも、それぞれの言い分があります。

そして僕は、それは全部正しいと思っています。

例えば、みかん一つを見ても、

  • 国語ならどう表現するか
  • 数学ならどう分析するか
  • 理科ならどう分類するか
  • 社会ならどこで作られているか
  • 英語なら海外ではどう呼ばれているか
  • 家庭科ならどんな栄養があるか
  • 美術ならどう描けば人の心を動かせるか

それぞれ違う見方があります。

教養とは知識の量ではなく、

一つの物事を様々な角度から見るためのレンズ

なのだと思います。

そして僕は、教養力というものを「レンズの数 × レンズの深さ」で考えています。

レンズの数とは、物事を見る視点の数。

数学のレンズ。

歴史のレンズ。

科学のレンズ。

経済のレンズ。

芸術のレンズ。

同じ出来事でも、多くのレンズを持つ人ほど世界は豊かに見えます。そしてレンズの深さとは、その理解の深さです。

ただ知っているだけなのか。

他の知識と結び付けられるのか。

本質まで考えられるのか。

教養とは、その掛け算なのだと思っています。

だから僕は、「中学の勉強ができない」という状態を少し怖いことだと思っています。

それはテストの点数が低いことと同値ではありません。

他の人が見えているものが見えていない。しかも、自分に何が見えていないのかにも気づきにくい。

そういう状態だからです。そして僕は、日本が義務教育を中学校までとしていることにも、それなりの理由があると思っています。

逆に高校になると少し性質が変わります。

中学校が広くレンズを配る場所だとすれば、高校はその中から興味を持ったレンズを深く磨く場所です。

だから僕は、

小学校は生きるための道具。

中学校は社会を理解するための教養。

高校は専門性への入口。

そんな役割分担があるように思っています。もちろん高校の勉強が不要だと言いたいわけではありません。

しかし、多くの人にとって最も普遍的な価値を持つのは、中学校で学ぶ内容なのではないでしょうか。

僕が高校受験を中心に指導しているのも、実はそこに理由があります。

さらに言えば中学受験や大学受験になると、どうしても選抜の色が強くなります。

一方、高校受験は比較的、

教養として身につけておいてほしい内容

入試問題

が近いように感じています。

だから僕は、高校受験レベルの問題で7割程度取れるのであれば、その人は社会で生きていくための教養を一通り身につけている状態だ

と言ってもよいのではないかと思っています。

受験は合否を決めるためのものです。しかし中学校の勉強には、それ以上の価値があります。

それは偏差値を上げることではありません。世界を見るためのレンズを増やすことです。

前回の記事に引き続いてですが、僕は『チ。―地球の運動について―』のあるシーンを思い出します。

作中では、夜空の星々に線を引き、

「これは射手座だ」「これはケンタウロスだ」

と意味を見出します。

もちろん実際に空に人馬がいるわけではありません。ある意味では壮大なこじつけです。

しかし、そのこじつけによって人類は星の位置を記録し、季節を知り、航海をし、文化を築いてきました。

教養も少し似ている気がします。

最初はバラバラだった知識が、

歴史と経済がつながり、

数学と投資がつながり、

理科と健康がつながる。

それまで点だったものに線が引かれていく。

世界そのものが変わったわけではありません。

変わったのは、自分の見方です。

だから僕は、教養とは世界に線を引く力なのだと思っています。

そして、その線を引くためのレンズを最も広く配ってくれるのが、中学校の勉強なのではないでしょうか。

教養力とは、

レンズの数 × レンズの深さ。

人生の選択肢や感動の数は、その掛け算によって決まるのだと僕は思っています。

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